ユキズリからの

真っ白い。
そして、暗い灰色だ。

極度に達した冷えに麻痺し、逆に火傷のような痛みを感じている。
これが凍傷というものなのだろうか。
ああ、寒い寒い痛い冷たい苦しい怖い痛い痛い痛い……
目を閉じ続けていれば楽になれるだろうか。
このまま楽に、

楽に――



「ざけんじゃないわよ、ったく。」
手放したはずの意識の片隅で、知らない声に悪態をつかれた。
ギュリ、ギュリ、と重く、何かが粉の上を踏み滑る音がする。
粉?
こんなところに粉などある訳がない。これは雪を踏む音だ。
そうだ、雪だ。
仰向けに倒れた眼前に広がるのは、ひたすら厚く覆ったグレーの雪雲で、
だが、その色さえ掻き消すように白い吹雪がひっきりなしに宙を切り裂いていた。
暗くて、白い。
白くて、暗い。

「だああああっ、もうダメ!ああダメですとも!」

頭の先で、知らない声がヒステリックに叫んだ。
「ったく、ヒュームは重いっつーの!運べるわけ無いっつーの!」
ぎゃあぎゃあと、声は喚き続けている。
ヒューム?
……私の、ことだろうか?
私という意識が先ほどより随分強く戻ってきている。
だが、目は開かない。開くことが出来なかった。
あれだけ痛かった体は、もうどこも痛くない。
「さ、寒いな。」
暫しの間があって、今度は震える呟きが聞こえた。
きっと凍えているのだろう。ここは吹雪のザルカバードなのだ。
「ちょっと、眠いかな……うう、いやダメ、寝ちゃダメ。」
眠ってしまえばいいのに。
そうしたら、私みたいに楽になれるのに。
だが、それでは声の主も私みたいに死んでしまう。
――そう。死んでしまう、私みたいに。

でも。
私は死んでいるはずなのに、まだここで知らぬ人の声を聞いている。
何故だろう。
「よし、行くぞ。せーのっ!」
ギュリ、ギュリ、と再び雪を踏む音が鳴った。

どうやら声の主はタルタルで、彼女は私の死体を運んでいるらしい。
どうも彼女は独り言の多い人物のようだ。
或いは、過酷な状況に独り言を言うことで発奮を図っているのだろうか。
真意はわからない。そして何故、彼女が私を運んでいるのかも。
「こんなの、見つけるんじゃなかった。」
ごめんね。私もあんな僻地で誰かに見つけられるとは思っていなかった。

「なんかもう、アチコチもげそう。」
溜息混じりに呟く声は、最早弱音ばかりになってきている。
「指取れそう。鼻取れそう。耳取れそう。」
ギュリ、と踏む音が止まった。
「……ー。」
小さすぎて、その泣き声は聞こえなかった。誰かの名だったのかもしれない。
声も出さず、彼女は密やかに泣いている。そんな気がした。
私の所為で知らない誰かが辛い思いをして泣いている。
死んでまで、私はまだ人を傷つけて、
死んだのにまだ、人を、ああ。

――助けて。

誰か、この人を、私を、助けてください。
泣かないで。
誰か、この人だけでも助けて。
お願い……どうか、



「どわあああああああっ、
 まーーけーーるーーもーーんーーかーーーっ!!!」

ギョッとするような声で、彼女が吼える。
死んでいるのに、私はちょっと怯んで呆気に取られた。
そして、可笑しかった。
笑っては不届きなのだろうけれど。
「だーれが、あんな奴に助けを求めるもんですか!」
恐らくは怒気なのだろう、そんな感情をあらわに彼女は力を取り戻す。
一歩、また一歩、前へと進み始めた。
「どうせ、あたしはタルタルですよ。細くて長い体の連中とは違いますよ。」
フンヌ、と背負う体勢を直して、彼女が唸った。
「足は短いですよ。寸胴でくびれは無いですよ。顔だってでかいですよ!」
これは愚痴……なのだろうか?
「そりゃ、あんたにとっちゃ色気も魅力もないでしょうけど、でも……
 あたしだって、タルタルの中じゃ結構いけてる方なんだからあああ!!!」

畜生、畜生、と呟く声に思わず失笑しそうになる。
死体を運んでもらっているのに、ごめんなさい。
わざわざ見つからないように隠した自殺体だったんだけど、ごめんなさい。

彼女は誰かタルタル族以外の男性に失恋してしまったのだろうか。
と、己の下世話な推測に恥ずかしさと申し訳なさが混在して押し寄せる。
「あーもう、ヒュームってば重たいんだから!」
……ごめんなさい。もう少しダイエットに励んでおくべきでした。

「もうちょっと、もうちょっとでアウトポストだ。頑張れ、あたし!」

その言葉に、そして思わぬ偉業に私は慄いた。
あんな僻地からアウトポストまで私を引き摺って来たというのか――!?
「誰がなんと言おうと、荷物として運んでもらうんだから。」
斜に構えた口調で決意を表すその人が、とても可笑しくて可愛らしい。
特産品流通組合の人も、死体を荷物と言い張られればさぞや困ることだろう。
私はくつくつと笑いを忍ばせる。死んでいるけど。
そういえば、こんな風に笑ったりするの、何時以来のことだろう。

そんなことを考えていたら、突然、彼女が息を呑んだ。

異変の気配に不安を感じて、様子を窺い続ける。
「ディー……。」
彼女がぽろりと零した誰かを呼ぶ声の、その声色に私は驚いた。
ああ、この人は妙齢の女性だったのだな、と漸く身に染みて実感する。
それほどまでに、その声は艶っぽかったのだ。が、
「――この、大馬鹿者!!」

その怒号に驚いたのは、彼女ではなく私の方であっただろう。
一瞬で彼女への心象のことなど吹き飛んでしまった。
「ごめんなさ、」
「どういうつもりだ!こんな置手紙残して……って、それは一体何だ?」
ディーと呼ばれた彼の言うそれとは、つまり私の死体だと思われる。
「えっと、ちょっと行き当たったというか、拾ったというか、ええと。」
彼女が言い訳に口篭っている。
確かに再会した知人が死体を担いでいたら不審であろう。
が、彼女にやましいことがないのは他でもない私が証明する。
こんな時、死んでいるのがもどかしいくらいだ。
私は何を言っているのだろう。

彼らの話はまだ続いている。
「レイズはしたのか?」
「した。」
ああ、そうだったのか。知らなかった。
「……でも、起きなかった。この人は起きようとしなかった。」

ギクリ、と私は死んでいるにも拘らず体を強張らせた。
傍観者だった私が、傍観対象だった彼女の口から語られたことに戸惑ったと
いうのもあるが、何より彼女が私を見抜いていたことに慌てた。
確かに私は起きたくなかった。
本当にレイズの詠唱は聞こえなかったのだろうか。
それとも聞かない振りをしていただけなのだろうか。

私は自ら死を選んだ。
この吹雪の地に埋まって閉ざされることを望んだのだ。
もう人々の間で小さく縮こまって過ごすのは――気を遣って、遣い過ぎて
心が削れるのはうんざりだ。
私が居なくても皆楽しそうにしている。私が居ない方が楽しいに決まってる。
私はきっと誰かを傷つけて嫌われたのだ。だから誰も私を必要としないのだ。
だから、だから、

「絶対、起こしてやる。」

力強い声で、彼女が言った。

「あたしっ……あたしが死のうと思ったのよ!あの場所で!」
叫ぶように彼女は続ける。
「そしたらこの人が先に死んでて、あたしの場所取られちゃって、
 悔しいけど見過ごせないし、レイズしたけど起きてこないし……」
「あたしが死ぬ、ね。それがこの書置きの意味か。」
不機嫌な彼の声で、話が彼らの問題に挿げ変わる。
「ふざけんなよ!俺がどんだけ心配したと思ってるんだ!」
「し、知らないわよ!探さないでって書いてあったでしょ!」
「探すなってのは、探せって言ってるようなものだろうが!」
「何、深読みしてるのよ。言葉通り読みなさいよ!どうして、そう捻くれてるの!?」

会話はよくある痴話喧嘩へと変わっていく。
仲介することも逃げ出すことも出来ない私はどうしたらよいのだろう。
居心地が悪い。
私の前で喧嘩しないで。人の汚い世界をもう見せないで。
静かに死なせて、お願い。
「――とにかく、あたしはこの人を起こしに帰るんだから!
 ちょっとそこ、どいてよ!」
死なせては、もらえないのだろうか。
「話はまだ終わってないだろう、逃げるなよ!」
彼は怒っている。そして、傷ついてもいるように感じた。
「俺が何をした?
 俺がエルヴァーンだから、タルタルの、お前の癪に障るのか?」
「……何もしてないわよ。」
「じゃあ、なんでこんな、」

「何にもしないからよ!
 どうせ、あたしはあんたの歯牙にもかけてもらえないわよ!
 ミスラにもエルヴァーンにもヒュームにだってなれないわよ!!」

「お前、何を言って……?」
彼が絶句する。一方で、私は彼女の心の一端を理解した。
そうだね、こういうのは男って解らないのだろうね。
贔屓目もあって、私はついつい彼女の方に加担する。
大多数がそうであるように見目良かろう、そのエルヴァーンの彼は、
きっと色んな女性から熱い眼差しを受けているのだろう。
そして、タルタルの彼女。
彼を慕う余り、彼とは最も体型の異なる種の己に劣等感を持ったのかもしれない。
でも、私には彼の気持ちも解っている。
彼女の気にするそんなものは彼にとって関係ないのだろう、恐らく。
何故なら、彼女はとても魅力的だから。
先刻、自分で色気も何も無いなんて言ってたけど、そうじゃない。
短い間だけど、私を引き摺っている間の仕草で判る。貴方は充分、魅力的だ。

彼女は子供のように、わんわん大声をあげて泣いている。
片や、彼の方は未だに彼女の心が解らず、絶句したままだ。

もどかしい。
一言、どちらかが好きだと口にすればいいだけなのに。
「もういい。ディーなんて知らない。」
「何だよ、その言い草は。こちらこそお前のことなど知るものか。」
「分からず屋!」
「何を!」

やめてやめて、もう、

「――これ以上、意地張らないでよ。」

小さく愛らしい彼女が、逞しく凛々しい彼が、目を見開いてこちらを向いた。
「あ、あんた、」
「……起きた。」
黙っていられなかった。二人が諍い、別れようとするのを止めたかった。
先刻まで全然痛くなかった体が、痺れるほどに痛い、辛い。
――でも。
「もう喧嘩しないで。二人とも、お互い好きなんでしょ?」
大事なのでしょう?

見る見るうちに、彼女と彼の顔が赤くなる。
知られてしまった自分の気持ち。知ってしまった相手の気持ち。
これで漸く彼らは一つになれるのだろう。私が繋ぎとめたのだ。
私はいたく満足して、微笑んだつもりが何故か涙で溢れた。

「それじゃ、お邪魔しました。」
文字通り、恋人達の邪魔にならないよう、私は踵を返す。
が、この足を何かが引っ張った。
「待って!待ちなさいよ!」
「え?」
呼び止められるとは思っていなかった。
振り返れば低い位置で彼女が、やっとその顔を見ることが出来た彼女が、
ムッとしたような、しかし真剣な表情でこちらを見つめている。
「何処行くつもりよ。」
私は少し返答に詰まる。
だが、それより全身の酷い痛みに耐え切れず、その場へ屈み込んだ。
途端、エルヴァーンの彼の方から高位ケアルが降り注がれる。
「おい、マトト。ちゃんと回復までしてやれよ。」
やれやれといった顔の彼に対し、タルタルの女性は
「レイズとトラクタで魔力使い切ったんだもん。」と口を尖らせる。
「しかも、トラクタの途中で魔力切れちゃったもんだから、
 後は手で引っ張ってきたんだよ。」
「……ヒーリングとか思い浮かばなかったのか?」
あっ、とは声に出さなかったが、しかしそんな表情で彼女は口に手を当てた。

フッと笑みを零しかけて、私は下を向く。
笑っちゃいけないような気がした。
「……じゃ、さよなら。」
「待ってってば!――あんた、あたしの苦労を無駄にしたら許さないわよ!?」
「えっ?」

「あんたの所為で、あたし死にそびれたんだから!
 あんた一人、思い通り死のうったって許さないんだからね!」

「マトト、お前引き止めるならもう少し説得力のあることを言えよ……。」
彼が呆れて声を挟む。が、私にはそれだけでもう充分だったのだ。
凍る間もないほど熱い涙が、後から後から溢れてくる。
弁解しようとしても、しゃくり上げて言葉にならない。
死にたくない。死にたくないの。
助けて。構って。話をして。私を見て。

「……もう、死ねないよう。」
それだけ言うので精一杯だった。

***

白魔道士は疲れ果てていた。
それまで仲間だと思っていた人々に、ある日突然無視され始めたからだ。
集いの中にいても誰とも話さない日々。話してもらえない日々。
勇気を出して、己に何か否があったか一人に尋ねてみた。
だが、それが裏目となって更なる陰口を呼んだ。
同じ場に居てもひそひそと耳打ちが聞こえる。
或いは集いに参加しなくても、居ない分、大っぴらに彼女は笑われた。
それを常に気に病み、散漫になることで白魔道士としての仕事も遅れ、悪評を呼ぶ。
彼女はどんどん悪循環に陥っていった。

ある日、彼女に突然、魔が差した。
衝動的に人気の無いところへ飛び、全てを断ち切ろうと考えた。
積雪の中に身を投げ、宙を見る。
暗いグレー。
飛び交う雪。
そこで彼女は楽園へ旅立つつもりだった。
旅立てるつもりだった。

だが、どこかで声がした。
彼女自身これまで幾度と無く唱えてきた魔法の響き。
この世界と人を繋ぎ止める声。
そんな優しい声が、

戻って来いと、彼女を世界に呼び止めた――。



「そういえば、まだちゃんと言ってなかったけど、あたし、マトト。
 あんたの名前は?」
「――私は、」
                                         完

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